松方正義公

明治12年45歳@松方正義 松方峰雄提供

 別府築港(別府市民読本 昭和13年11月 発行:別府市教育委員会) 別府市の海の玄関口である築港桟橋は、毎年増加していく数多くの船客の送迎に、昼夜の区別なく大変に賑わっている。
明治4年にこの港ができた当時にこれほどまでに今日の盛況を予想した人はだれもいなかった。慶長3年久光島の陥没以来風雨を防ぐ堤防等は何もなく、横灘一帯には海港としては唯一の小浦港(今の豊岡)があるのみで、別府村は海に臨んでいながら久しい間海運に恵まれていなかった。そういう状況のなかで、明治2年の正月に時の県知事松方正義公は管内巡視の途中に別府村を訪れて、流川尻付近の海辺に碇船している入湯船や漁船の様子をよく眺め、併せて沿海の地形をつぶさに視察した後に、別府に築港の緊要なことを力説した。そして、もし別府村でこの企てをするようなことがあるならば、県としてもできる限りの援助を欲しまないであろうとまで言われた。
 明治14年大蔵大臣、同24年総理大臣となり、政治手腕を発揮した松方だけに、別府温泉発展の将来を見据えての進言であった。  
 明治元年ころに日田県知事は管内殖産興業の必要性を感じ、生産会所を日田・四日市・別府の3か所に置き、別府会所に対しては現金○に不換紙幣約5万8千両を貸附して、それで生産者に対する資本の融通を図った。このように別府築港の必要性は、実に生産会所の事業運用上、痛切に促された結果として工費貸与を県に仰いで、もって築港の実現をみることとなった。
 この松方公の説に動かされた村の関係者(別府生産会所係員、日田郡隈の劉藤兵衛、同森宗兵衛は、同僚大分郡原村の間藤幸右衛門、松尾彦七、大野六兵衛等)いろいろ相談をしてまとめ、当時築港のために棟梁柴田○左衛門を佐伯から招いて現地調査を行ってもらい、さらに改修計画書を作成して提出を行い県の指示を仰いだ。
 明治二年十一月に松方知事はこれを受け入れて、工事費用は新政府が発行した太政官札八千両を貸与することとなり、別府温泉発展の端緒となった別府港築港工事は着手された。明治3年2月23日に着手してから翌4年5月竣工に至るまでに、明治三年九月6・7日に暴風雨に遭ってそれまでに出来上がった堤防80メートルが崩壊し設計変更の必要に迫られて同年十二月に再び工事費貸与の請願が行われた。松方知事はこの苦境に同情し工事費追加金六千両の工費を貸与し工事を続行させた。村人達の苦労は並大抵ではなく涙ぐましい苦闘の日々であった。主として実際の施工にあたっては佐伯福良浦の○四郎○と佐賀関の興作があたり明治4年5月30日に東西百八十メートル、南北百四十メートルの近代的波止場が竣工した。九州では長崎、博多港につぐ3代港の一つ別府港波止場が完成したために、それだけに別府村民の竣工の喜びは大変に大きいものがあり6月5日から7日までの3日間、別府村全村民が北浜に集まり、別府温泉の発展を願って盛大な竣工式を挙げた。北浜の波止場神社はその当時建立したもので、同港の鎮守として北浜の浄地に気長足姫命他六神を斎祈し波止場神社と称された。
 大正4年に境内の築港記念碑は建設され、よくその当時の顛末を物語っていて、その功績を永遠に伝えている。その題字は故日田県知事松方正義公の揮ごうによるものである。その後に、築港は台風などの暴風雨のため再三に渡り被害を蒙ったがその都度に修理を行いながら現在にいたっている。  
 この別府港が完成した後の別府村は順調に発展の道をたどった。明治6年5月30日に大阪開商船社の西洋型木造蒸気船益丸(18トン:船長秋岡三郎右門、乗組員12人)が初めて別府港に入港したが、船は沖合に停泊、テンマ船を出して客を運び上陸させていた。この小型船益丸は別府・大阪を結んだ観光ルートの第1船であった。当時の村人にとってそれが長い間の待望の的であっただけに大きな誇りにもなった。しかし、益丸の寄港は月一度だけでしかも大阪までの航程に3日もかかるという状況であった。別府を結ぶ瀬戸内海観光ルートの第1船となった益丸は、入湯客や物資を運んでいたがまだ鉄道がないときだけに、大阪~別府線の海上輸送をめぐって、戦国時代が展開されることになった。明治17年住友が乗り出し、大阪商船(関西汽船の前身)の別府村出現となった。大阪商船は17年5月、別府に代理店を置き貨客の取り扱いを始めた。一方、四国航路は明治18年8月、宇和島運輸が創立され別府~宇和島間に汽船を就航させた。ついで20年、尼崎汽船を就航させた。ついで20年、尼崎汽船が進出してから3社対立競争となり、海上交通は盛んになった。波静かな瀬戸内海航路は、お客と貨物の奪い合いの激しい競争となり、船賃の値下げという泥試合的な様相を見せ、経営不安定な対立が続いた。
 大阪商船は明治33年1月、別府代理店を支店に昇格させ、三百トン級の別府丸・吉野川丸などを就航させた。各商船会社が激しい誘致合戦で湯治客を運んでくるため、年を追うごとに湯治客が多くなり、豊富な温泉を湧出する農漁村の別府は、温泉町別府へと脱皮していった。明治四十四年七月一六日、別府駅が開通、別府温泉発展に新しい生命を吹き込んだ。この別府駅の開通に呼応して、大阪商船は明治四四年一二月、阪神~別府航路にドイツから買い入れた旅客専用船くれない丸を就航させた。同航路に初の千トン級鉄鋼船で話題となり、乗客の人気を呼んだ。くれない丸は隔日就航だったが、阪神~別府就航が本格的に開けたのは大正時代になってからであった。それから幾年月が経て、昔の開商社は今の大阪商船会社となり、大正8年には専用の桟橋を築港し、昭和10年に社屋を改築して遂に今日の発展を見るに至った。しなしながら日に月に伸びゆく我が泉都の玄関口としては、早速現状を以ってしては手狭になってきた。的が浜から国際観光港まで海岸線は埋め立てられ、埋立地の的が浜には、都市型海浜公園ができた。昭和四十七年八月三日、的が浜には、都市型海浜公園ができた。昭和47年8月3日に的が浜公園に3基の大型カラー(7色)噴水が完成し、昭和44年11月1日完成した北浜海浜の幻想的カラー噴水とともに、別府観光に新しい歴史を生んだ。的が浜公園は44年4月から46年8月3日までの4カ年計画で着手した造成地である。別府の海の玄関、別府国際観光港は九州観光ルートの海陸中継拠点である。数万トン級の大型観光船、フェリーが接岸できる岸壁もある。別府は明治・大正時代の湯治客相手の町から昭和となって温泉と観光の歯車をピストン回転させ始めた。そして昭和20年の終戦を契機に国際観光都市へ脱皮をはかろうとした。そこは将来、客船の大型化、船便の増加に対応するために大規模な港を建設することだった。そこで市民各団体代表によって昭和22年8月4日「別府国際観光港設置期成会が発足、観光港設置に関する請願も衆参両院で採択された。だが終戦の国の財政事情から建設はおくれた。昭和35年7月18日に別府国際観光温泉文化都市建設法が公布された。翌26年10月に総工費三億三千5百万円を投じて別府国際観光港建設に着工、33年3月に三千トン級の船が1隻着岸できる岸壁が完成した。昭和35年3月、関西汽船が豪華客船「くれない丸」を就航した。このため別府桟橋に着岸していた宇和島運輸の客船が、観光港利用を始めた。
 当時観光港付近一帯は田畑ばかり続いた海岸で、市街地から遠く、交通は不便であった。それから年々ふえる臨時船や定期船の増加などで、運輸省は40年度から観光港に大型船が接岸できる建設に着工、海面の埋め立てを始めた。工事の進行で観光港の施設もととのった。交通マヒ状態となっている国道10号線の道路拡幅工事で、関西汽船別府支店は昭和42年7月15日観光港に移転した。昭和39年10月3日、別府を起点に長崎を結ぶ、九州の屋根をよぎる観光の大動脈、九州横断道路(通称:やまなみハイウェイ)が全線開通しから観光へのダッシュがかかり、別府温泉と観光の歯車はピストン回転となりとくに鉄輪、亀川など北部地域の発展に拍車をかけた。